魔法使いと
人魚の指輪

The Wizard and
the Mermaid's Ring

むかしむかし、あるところに、
マオという魔法使いがいました。

マオは、
人とは少し違う力を持っていました。

そのせいで、
誰かと上手に話すことができませんでした。

みんなに怖がられるのも、
不思議そうな目で見られるのも苦手で、
いつしか、ひとりでいることが
当たり前になっていました。

だからマオはよく、
誰にも会わない浜辺へ逃げました。

波の音だけが聞こえる場所で、
ぼんやり海を眺めながら、
一日を過ごしていたのです。


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ある日のことでした。

いつものように海を眺めていると、
遠くからたくさんの人の話し声が
聞こえてきました。

にぎやかな笑い声。
砂浜を踏む足音。

マオは胸が苦しくなって、
誰にも見つからないよう、
そっと魔法を使いました。

次の瞬間、
マオの体は海の中へ沈んでいきました。

海の中は、とても静かな世界でした。

水面からこぼれる光は、
ゆらゆら揺れる青いカーテンみたいで、
魚たちは空を飛ぶ鳥のように泳いでいました。

波の音も、人の声も届きません。

まるで世界そのものが、
静かに眠っているみたいでした。

「……このままずっと、
海の中で暮らしてもいいかもしれないな」

そんなことを思いながら、
マオはどんどん深い海へ進んでいきました。


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どれくらい泳いだ頃でしょう。

遠くの暗い海の中で、
何かが激しく逃げ回っているのが見えました。

大きなサメでした。

鋭い歯をむき出しにして、
何かを追いかけていたのです。

「海の世界も大変なんだな……」

そう思いながら、
追いかけられている方を見たマオは、
思わず目を見開きました。

長い髪。
青く光る尾びれ。

追われていたのは、
人魚の女の子だったのです。

マオは慌てて魔法を使いました。

海の水が渦を巻き、
サメの体を押し流します。

驚いたサメはそのまま逃げていき、
静かな海だけが残りました。

助けられた人魚の女の子は、
ぱちぱちと目を瞬かせながら言いました。

「すごい……!
あなた、魔法使いなの?」

マオは少し照れながら、
小さくうなずきました。

すると人魚の女の子は、
ぱっと笑いました。

「ありがとう、助かったわ!
私、ミアっていうの!」

その笑顔は、
海の中なのに太陽みたいに明るくて、
マオは少しだけ、
言葉に困ってしまいました。

「……マオ、です」

「マオね!
ねえ、お礼に今度、
秘密の洞窟へ案内してあげる!」

マオは戸惑いながらも、
少しだけ嬉しくなっていました。

「……うん。楽しみにしてる」


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それから、マオとミアは何度も会うようになりました。

ミアは海の中の色んな場所へ、
マオを連れて行ってくれました。

色とりどりの魚が集まるサンゴ礁。
誰も知らない深海の洞窟。
夜になると青く光る海底の花畑。

マオは知らなかった世界をたくさん知りました。


そしてミアは、
人間の世界の話を聞くのが大好きでした。

街にはどんなお店があるのか。
空を飛ぶ鳥はどんなふうに見えるのか。
人間たちはどんな歌を歌うのか。

ミアはいつも、
宝物を見つけたみたいな顔で
マオの話を聞いてくれました。

誰かが自分の話を、
楽しそうに聞いてくれたのは、
マオにとって初めてのことでした。

だから気づけば、
マオはミアと過ごす時間を
何より大切に思うようになっていました。


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けれどある日、
ミアは少し寂しそうな顔で言いました。

「ねえマオ。
人間の国のお城って、海の向こうにあるのよね?」

「……あるけど?」

「王子様って、本当に優しい人なのかな」

マオの胸が、少しだけざわつきました。

話を聞けば、
ミアはずっと、人間の国の王子様に憧れていたのでした。

もちろん、恋心もありました。

けれど、それだけではありませんでした。

ミアはずっと、
「人間の世界で生きてみたい」と願っていたのです。

人魚でも、人間でもない自分。

海の中でも、陸の上でも、
どこか居場所がない気がしていたのでした。

「……会いに行けばいいじゃないか」

マオは少しだけ、
ふてくされたように言いました。

けれどミアは、
困ったように笑いました。

「行けないわ。
私、足がないもの」

そう言って尾びれを揺らす姿が、
なぜだかとても遠く感じました。


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マオは悩みました。

実は、人魚を人間に変える魔法があったからです。

けれどその魔法には、
大きな代償がありました。

願いが叶わなければ、
人魚は泡になって消えてしまうのです。

もしミアが人間になれば、
もう二度と海には戻れないかもしれない。

そして、
マオの元にも戻ってこないかもしれない。

だからマオは、
そのことをなかなか言い出せませんでした。

「また一緒に遊ぼうよ」

やっと絞り出した言葉は、
そんな弱い言葉でした。

「きっと、気分も変わるよ」

ミアは少しだけ笑って、
けれどどこか寂しそうにうなずきました。


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それからも、
二人は何度も会いました。

けれどミアは、
時々遠い海の向こうを眺めるようになりました。

その横顔を見るたび、
マオの胸は苦しくなりました。

そしてある日、
とうとうマオは全部を話しました。

人間になれる魔法があること。

けれどその願いが叶わなければ、
泡になって消えてしまうこと。

全部、正直に話しました。

ミアはしばらく黙っていました。

静かな海の中で、
光だけがゆらゆら揺れていました。

やがてミアは、
小さな声で言いました。

「私ね、ずっとひとりぼっちだったの」

「……」

「人間でも、魚でもないでしょう?
だから、どこにいても、
自分だけ違う気がしてた」

ミアは少し笑いました。

「でも、マオといる時間は好きだったわ」

その言葉だけで、
マオは泣きそうになりました。

「それなら……!」

思わず声を上げかけたマオに、
ミアは静かに続けました。

「だけど、チャレンジしてみたいの」

ミアの瞳は、
まっすぐ前を見ていました。

「怖いわ。
消えてしまうかもしれないし、
傷つくかもしれない」

「でもね。
それでも、一度くらい、
自分の願いに向かって進んでみたいの」

そう言って微笑むミアは、
どこか寂しくて、
でも、とても綺麗でした。

「もし泡になってしまっても……」

ミアはそっと言いました。

「きっとマオなら、
私のことを覚えていてくれるでしょう?」

その言葉を聞いた時、
マオはもう止められませんでした。



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マオは、
ミアに魔法をかけました。

青い光が海の中を包み込み、
尾びれはゆっくり人の足へ変わっていきました。

魔法が終わる頃、
ミアは小さな指輪を取り出しました。

貝殻みたいに淡く光る、
綺麗な指輪でした。

「これ、大事にしてたの」

ミアは笑いました。

「お礼。
ずっと持っていてくれる?」

マオは静かにうなずきました。


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そしてついに、
ミアは人間になりました。

砂浜を裸足で歩く感触。
風が髪を揺らす感覚。
草の匂い。

その全部が、
ミアには新しい世界でした。

ミアは嬉しそうに笑いながら、
王子様のお城へ向かって走りました。

町はとても賑やかでした。

まるで、
ミアの新しい人生を
祝福しているみたいでした。

やがて遠くに、
大きなお城が見えてきました。

バルコニーには王子様の姿があります。

「……会える!」

ミアは胸を弾ませました。

けれど次の瞬間でした。

王子様の隣に、
美しいウェディングドレス姿の女性が現れたのです。

人々の歓声が響きます。

王子様の結婚相手は、
もう決まっていたのでした。

ミアはその場に崩れ落ちました。

声も出ませんでした。

ただ、
世界だけが遠くなっていきました。


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心配になって追いかけてきたマオは、
その光景を見て全てを理解しました。

マオは何も言わず、
そっとミアを抱き上げました。

そして二人で、
あの海へ向かって歩きました。

ミアの指先は、
少しずつ泡になって消えていきました。

それなのに、
マオの腕の中は不思議なくらい温かかったのです。

「……ごめんね」

マオが震える声で言うと、
ミアは小さく首を振りました。

「ううん」

そして最後に、
優しく笑いました。

「ありがとう」

その瞬間、
ミアの体は無数の泡になって、
静かな海へ溶けるように消えていきました。


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マオは、生まれて初めて泣きました。

胸が苦しくて、
涙が止まりませんでした。

でもマオの心に残ったのは、
悲しみだけではありませんでした。

「だけど、チャレンジしてみたいの」

ミアのその言葉が、
ずっと胸の中に残り続けていたのです。

そういえばマオは、
自分の力を使って、
何かに挑戦したことがありませんでした。

怖かったからです。

嫌われるのが怖しくて、
傷つくのが怖しくて、
ずっと逃げてきたのでした。

でもミアは、
消えてしまうかもしれないのに、
前へ進もうとしていました。

だからマオは、
自分の魔法を披露するお店を開きました。


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最初はとても緊張しました。

けれど勇気を出して魔法を見せると、
みんな目を輝かせました。

「すごい!」

「もう一回見せて!」

そんな声が、
次々に聞こえてきたのです。

マオは驚きました。

自分の力を、
こんなふうに笑顔で見てくれる人たちが
いるなんて知らなかったのです。

噂は国中へ広がっていきました。


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マオのお店は大人気になりました。

たくさんの仲間ができました。

弟子も増えました。

毎日のように女の子から、
お手紙も届きました。

でもマオは、
誰とも結婚しませんでした。

店の奥には、
いつもひとつの指輪が飾られていました。

生まれ変わったミアが見ても、
気づいてもらえるように。


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月日は流れ、
マオも年老いていきました。

もう長くはないと感じたマオは、
弟子たちを集めました。

そして、店に飾られた指輪を見つめながら言いました。

「この指輪だけは、
ずっと飾ってほしいんだ」

弟子たちは理由を知りませんでした。

それでもみんな、
静かにうなずきました。

それから間もなく、
マオは静かに旅立ちました。


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それから、
ながないがーい年月が流れました。

今でもそのお店は、
マオの弟子の弟子の、
さらにそのまた弟子たちによって、
守り続けられています。

店の奥には、
今も変わらず、
ひとつの指輪が飾られています。

もう誰も、その指輪の意味すら知りません。


ただ、美しく輝くその指輪だけが――


今日も静かに、
魔法使いたちの物語を
見つめ続けているのでした。